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韓国大邱市の中華料理店「万里長城」の韓国式チャンポンと異文化体験

現在も営業しているかどうかは心もとない。すでに30年以上、大邱に足を踏み入れていないのだから。韓国料理と言えば、このお店が最高となるのはやむを得ない。 大邱市中区大鳳1洞55-39  中華料理店「万里長城」 このお店の味が忘れられないのは、私の韓国生活で最初の友人呉ジュヨン君と出会ったお店だからである。 もっとも友人と言っても、呉ジュヨン君は当時小学3年生か4年生だったはず。お店のオーナー呉南樹氏(当時、大邱市議会議員)の次男であった。右も左も分からず渡韓し、しかも親しい人もいず、韓国語さえもおぼつかない有様であった。当然ながら食事はいつも一人、ご存じの通り、韓国の外食でも、今も昔も一人で食堂に入ったり、酒場で一人酒をする習慣はない。したがって一人で食堂に入り、独りの食事メニューも当然に限られてくる。止宿先の前にあったお店だけに、ものぐさの私にとって、そのお店の常連になるのに日を要しなかった。 だかからこそ、 *「チャンポン ハナ ジュイソ。メプチアンケ ヘジュシラムニッコ」 という言葉は大邱方言であるが、しばしば通ううちに、自然と覚えた言葉。なにしろそのままでは辛すぎるので、トウガラシの量を半分以下に調整していただく必要があった。友人曰く、今もソウル標準語を知らないと違うか。 ある日、ものお珍しそうに私に近寄って来たのが呉君であつた。下手な韓国語で注文する日本人アジヨシ(おじさん)がほぼ毎日チャンポンを食べに来ると両親から聞いたからだろう。 その当時、大邱に居住する日本人は数名(4名?)に過ぎなかったので、珍しかったのだろう。 倉庫のどこかを探せば、その「万里長城」の韓国式チャンポンの写真が出てくるかもしれない、というのもスープは真っ赤だから。その驚きをは写真に撮ったに違いない。 韓国での中華料理と言えば、チャンポンと双璧な国民食は チャジャンミョン  (漢字表記: 炸醬麵 、짜장면)である。甘い黒タレの麵であるが、私にとって、海鮮類も野菜も入っているチャンポンを自然と多く注文することとなった。 そのチャンポンを通して、そして呉ジュヨン君を通して、いつの間にか大邱市内に友人が増えていった。だからこそ、万里長城式チャンポンはいつまでも我が第2の故郷大邱の味である。 ところで、今も未解決なのは、チャンポンに黄色な沢庵が添えられることである。 *********...

全国ご当地ラーメン食べ歩き(5)ふくちゃんラーメン百道浜店ーー元寇防塁は中世日本の一大公共事業

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 このふくちゃんラーメンは田隈本店ではなく、百道浜にあった時代のお店の話である。その当時は元気な盛りであったので、自転車で市内各所を巡遊した。遠くは東に志賀島、宗像神社、そしてに今宿・糸島、南は大宰府・基山まで自転車で出歩いた。のんびりとぶらり自転車の旅だった。  ある日、西南学院大学は元の元寇防塁址をキャンパスにしているらしいと聞き、それではと自転車を走らせた。当時、早良区高取に仮住まいをしていた。 毎日の通勤途中に早良郵便局前の大きな石碑「元寇防塁入口」を目にしていたので、防塁へのアクセスは容易く見つけられる。しかも念の入ったことに、明治通りの十字路の信号の上に「防塁」とあり、防塁交差点だと呼ぶ 。そこから明治通りを背にして修猷館高校のグランド沿いに約300m行くと、左側に小高く盛り上げた土塁が目に入り、その上には松林が続く。これが元寇防塁の痕跡。 この藤崎地区元寇防塁に関しては、福岡市の説明に、 「  文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。」 とある。  元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれたが、その構築、修理、警固番役等については知られていなかった。大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。  また、西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。  西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。  ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。」 ( 福岡市の文化財 ) とあり、おおよその姿は追想できる。逆に言えば、その防塁遺跡...

全国ご当地ラーメン食べ歩き(4)高円寺のチャンポンと胡椒

 すでに半世紀以上前、4年間、高円寺に住んでいた。10名の学生下宿があった。9名は各4.5畳お金持ちの子弟一人だけ8畳の部屋割りであった。田舎から仕送りも途絶えがちであった私だけに、当然に日当たりが悪く、狭い4.5畳の部屋。むやみやたらと本が散乱する部屋であった。その下宿の住人はバラバラの学校に通っていたので、だからこそ面白かった。  下宿は高円寺駅から徒歩で12~13分の場所。今、駅から歩いて案内せよと言われても、道に迷うだけ。住所すら思い出せないので、グーグルマップも無理。町名が大和町だけはうっすらと思い浮かべるが、その情報さえも正確でないだろう。住所を尋ねる人も、もはやいない。  その高円寺駅前に、チャンポンのお店があった。その場所も思い出せない。商店街の一角であったとうっすら記憶をしている。四角い餃子に、羽根つきとともに、チャンポンを看板商品にするお店であった。40歳代の店主がお一人で調理もし、そして配膳もし、さらには後かたずけもなさっていた。 長年、本場長崎のみならず、他の地域で長崎でチャンポンを食べてきた経験から言えば、あの高円寺チャンポンが長崎風であるとは思えない。だから長崎風だと歌わなかったのだろう。  白濁でとんこつ味のスープに、太麺。やたらとキャベツが多かった。平素、野菜不足であったので、あの店は栄養満点であった。おいしかったかは思い出せない。特別な感覚を呼び戻せないので、平凡な味だったかもしれない。 しかし、我が人生でショッキングなのは、そのお店で覚えたハウス食品胡椒、ペッパーである。それまで胡椒を知らないので、不思議な辛さであった。  そしてあの店を思い出すたびに、我が20歳代、貧しき学生時代とともに、胡椒の味がよみがえる。ただし夢だけは盛りだくさんであった。  後年、胡椒ロードを研究対象に加えたのは、この時のショックのせいだろう。

全国ご当地ラーメン食べ歩き(3)桂花ラーメンと新宿

  そのラーメン店は、新宿東口駅前のビルの半地下にあった。数名も座れば、満席になる狭いお店であった。ぼんやりとした記憶であるが、三角形のお店ではなかっただろうか。 当時、貧乏にあえいでいたために、桂花ラーメンはぜいたく品であった。いわばコンサートホールに欧米から超一流オーケストラが来て、そのコンサートチケットを購入するような高価であった。 貧しかった。 星雲の志しを抱き、上京。しかし、田舎からの仕送りは東京での生活にかつかつであった。下宿代を支払えば、わずか1000円が手元で自由に使えるお金であった。金銭的な余裕などもなく、毎日にアルバイトに飛び回っていた。 両親にすれば、安定的な職業の道を放棄して、息子が飛んでもない方向に飛び跳ねて、ハラハラの連続であったからだろう。親になってみて初めて、その時の両親の思いを察した。 その時代、若気の至りで、無性に時代に反抗し、腹を立て、背向けて、独りよがりの道を突き進もうとした。  その報いだろう、学友たちが優雅に食べ歩きや高級レストランでコンパを重ねていた時に、自分は汗まみれで都内の各所で働きずめであった。  肉体的にも、精神的にも、また経済的にも追い詰められていた時、ふと目にしたのが「桂花ラーメン店」の看板。狭いカウンター席で、身も知らないお客と相席になりながら、互いに目でお疲れさまとエールを送り、ラーメンをすすりあった。  私の印象では、なぜか固い麺であったし、こんな固さを好む人間の食生活のまずさを呪っていた。 先日、何十年ぶりに新宿に出かけた折に、久しぶりに桂花ラーメンの店を訪ねた。今はその場所から移転して、別な場所で営業をしていた。そして支店も数店だすほどに営業力を充実していた。 ただし、そのお店に足を踏み入れなかった。おいしいラーメンも、思い出の苦い味になるだけだと考えたからである。

全国ご当地ラーメン食べ歩き(2)長崎ちゃんぽん・リンガーハットと日本の味

  今となっては、笑い話にしかならないだろう。今風の言葉で言えば、「マジ?」「ウソ!!」。 1980年前後、韓国から日本に国際電話をかける時、市内のメイン郵便局に出向き、国際電話・市外電話担当係員を通して、どこかに(特に秘す)申請をしてから、1~2時間電話ボックスの前で待ち続けて、やっと国際電話で我が家族との通話が可能であった。国中で一般電話を持つ家も多くなく、カカオトークもZOOMによるMeetingもない時代であった。  当然ながら日本の紙媒体の新聞を読む機会もなく、また衛星放送やインターネットを通したドラマやニュースに接することなどは夢の世界であった。その中で、わずかに日本の短波放送は韓国内で鮮明に聞くことができた。そして中波のラジオにしても、昼間は無理であったが、深夜になるとなぜか耳に飛び込んできた。時が時だけに、朴大統領暗殺事件、スリーキム時代のソウルの春、光州事件なども、日本のメディアを通して、いったい何が韓国で起きているのかを把握できた。頼りはラジオであった。  さて、その不安な政情に悩み、一刻も早く日本に帰りたいと願っていた時に、ラジオから繰り返し聞かされたのが、長崎ちゃんぽんリンガーハットの宣伝であった。ラジオの感度が悪く、いつも雑音が入っていた。いかなる麺食なのかも知らないで、その広告曲を耳にするたびに、日本への望郷の念を募らせていた。  時が幸い。偶然に九州に職場が見つかり、赴任した当日、上司に特にお願いしてお連れ頂いたのが、長崎ちゃんぽんリンガーハットであった。長年の夢をかなえたかった。その上司は就任祝いの会食であるので、高級なお店を予約なさっていたようだった。だから、「なぜ、リンガーハット?」と怪訝そうに質問なさるのも当然であった。 そのお店で注文したのは、ラジオで耳にしたメニューであった。当時290円であった。  白濁色のスープに、太麺。これまで私が口にしたことのない麺食であった。未知の長崎というご当地の味、そしてリーガーハットというエキゾチックなネーミングに心を奪われた。  だからこそ一口食べて、おいしいとかまずいのではなく、やっと日本に帰国できたという安堵感が口いっぱいに広がったことを思い出す。 その後、リンガーハットは全国展開の企業。今やどこでも口にできる国民食。しかし個人的にはあの国道沿いの、屋根に赤いとんがり帽子の煙突が...

全国ご当地ラーメン食べ歩き(1)太平楽と故郷の味

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  日本ラーメン協会によると、 ご当地ラーメン7つの定義(2023年5月現在) 以下のいずれかの条件にあてはまるご当地ラーメンを一覧に掲載しています その土地で広まった実績がある 特徴、特色、定義などがある 発祥から20年以上の歴史を持っている 知名度がある(他県や都内に支店を出店、百貨店催事出店歴など) その土地の「食文化」や「社会背景」がある 応援団体が存在する 行政など公的機関が主体となり、そのメニュー名が設定されている 私は定義などとは無関係に紹介したい。いわば無手勝流である。自分が食べた麺食ラーメン・チャンポン・焼きそばを備忘録の代わりに書き留めておくだけである。他者が読むことを想定していないので、身勝手そのものである。 人生で最初に食べたラーメンは、 *太平楽 JR松江駅から徒歩5分で、創業60年の老舗「中華そば 太平楽」。 住所:  島根県松江市朝日町487  いま、ネット検索をすると、創業60年とある。とすれば、私が食べたラーメンは太平楽初期の味であったらしい。当時、高校生であり、親元から離れて下宿生活を過ごしていた。朝夕2食付きの下宿であったが、日曜日は外食。だからこそ県立図書館や古本屋ダルマ堂・今井書店などに向かう時に、毎週立ち寄った。安かったから。その当時ファーストフード店も、コンビニエンスストアもスーパーさえもない時代だった。  何しろ、山奥のド田舎生まれであったので、調味料と言えば醤油・塩・山椒程度。ソース・マヨネーズもドレッシングも、ましてやオリーブ油・オイスターソース・豆板醤などは全く未知。母の料理と言えば、塩もみの野菜か醤油味の煮つけ。冷蔵庫さえないわけだから、魚と言えば塩焼き、肉も近所でつぶした鶏肉のみで、牛肉も豚肉も知らなかった。  だからこそ、幼少時の楽しみは松江大橋のたもとにあったパーラーのカツレツ(デミクラスソース)。今や松江のソウルフード化しているらしい。年に1回か2回の楽しみであった。小さなダットサンに家族4名が乗車して、松江に向かった。その味は「プチ都会の味」。おいしさよりも、家族の思い出に直結する食べ物。 高校生になり、なぜか下宿生活を母親に強制されて街に追い出された。当時はベビーブームの時代であったので、熾烈な受験戦争に追いまくられていた。そのひと時の憩いが、太平楽のラーメン。 今思えば...